「なぜ」という問い
「なぜ」「何で」この言葉を、子どもは頻繁に口にする。
その答えに窮する位に、理由を聞いてくる。
好奇心からくる質問、疑問に対して、
気の利いた答えができたらなと、僕も頭を悩ませる。
子どもは素直に聞く「なぜ」という言葉。
モノゴトの「なぜ」を知っているか、知っていないかで、
行動や行為の意味が全然別物になる。
知っているだけでなく、理解しているかどうかで、次元も変わる。
年齢を重ねて、慣例に従うこと、セオリーに従って賢く生きてくると、
「当たり前」と「正しさ」を前提にして、なぜかを考えなくなる。
何も考えずに繰り返す1000回と、
意味を知って仕組みを理解してやった1000回では、
1000回分の巻き返しのつかない差が出来る。
1000回分、意味を体に叩き込んで、1000回分理解が深まる。
繰り返せばまた「なぜ」が湧き上がってきて、
それを知る毎に加速度的に見える世界が広がっていく。
正しい事(のように思える事)、常識と思っていることは、
現時点ではそうらしいという位であって、
実は大間違いだったり、超非常識だったり、迷信だったりするかもしれない。
常に疑ってかかること、試行錯誤に耐えうるものを見つけること。
モノゴトの裏にある真理、本質をつかむこと。
そんな生き方を追究している人に会うのは、本当に楽しい。
久々に会った人が、昔と全然変わっていないと、ガッカリする。
その人の時間の流れが、永久にそこで止まってしまって、
劣化だけ進んでいるように感じてしまう。
時間が経過したということは、生き方に時間も労力も費やしてきたのだから、
様々な事が変わっていなければならないはずだ。
「なぜ」と問い続けるのは、時に苦しいかもしれない。
意味を問う程に、不条理で理不尽なことだって沢山ある。
何も考えずに、言われるがままに受け入れた方が、楽で安泰なことだってある。
でも、その「なぜ」に、あなたなりの感性が生きている。
その感性がこそが、あなたがあなたである、価値と意味だ。
どこに、なぜを感じて、どう消化するかが生き方になる。
「なぜ」を持ち続けよう。
生きている限り、考えて知り続けよう。
今日言いたいのは、それだけ。