「なぜ」という問い
![](https://i0.wp.com/lakuda.net/wp-content/uploads/2018/07/富士宮2018_180718_0029.jpg?fit=2364%2C1773&ssl=1)
「なぜ」「何で」この言葉を、子どもは頻繁に口にする。
その答えに窮する位に、理由を聞いてくる。
好奇心からくる質問、疑問に対して、
気の利いた答えができたらなと、僕も頭を悩ませる。
子どもは素直に聞く「なぜ」という言葉。
モノゴトの「なぜ」を知っているか、知っていないかで、
行動や行為の意味が全然別物になる。
知っているだけでなく、理解しているかどうかで、次元も変わる。
年齢を重ねて、慣例に従うこと、セオリーに従って賢く生きてくると、
「当たり前」と「正しさ」を前提にして、なぜかを考えなくなる。
何も考えずに繰り返す1000回と、
意味を知って仕組みを理解してやった1000回では、
1000回分の巻き返しのつかない差が出来る。
1000回分、意味を体に叩き込んで、1000回分理解が深まる。
繰り返せばまた「なぜ」が湧き上がってきて、
それを知る毎に加速度的に見える世界が広がっていく。
正しい事(のように思える事)、常識と思っていることは、
現時点ではそうらしいという位であって、
実は大間違いだったり、超非常識だったり、迷信だったりするかもしれない。
常に疑ってかかること、試行錯誤に耐えうるものを見つけること。
モノゴトの裏にある真理、本質をつかむこと。
そんな生き方を追究している人に会うのは、本当に楽しい。
久々に会った人が、昔と全然変わっていないと、ガッカリする。
その人の時間の流れが、永久にそこで止まってしまって、
劣化だけ進んでいるように感じてしまう。
時間が経過したということは、生き方に時間も労力も費やしてきたのだから、
様々な事が変わっていなければならないはずだ。
「なぜ」と問い続けるのは、時に苦しいかもしれない。
意味を問う程に、不条理で理不尽なことだって沢山ある。
何も考えずに、言われるがままに受け入れた方が、楽で安泰なことだってある。
でも、その「なぜ」に、あなたなりの感性が生きている。
その感性がこそが、あなたがあなたである、価値と意味だ。
どこに、なぜを感じて、どう消化するかが生き方になる。
「なぜ」を持ち続けよう。
生きている限り、考えて知り続けよう。
今日言いたいのは、それだけ。