考える程に上手くいかなくなる理由
能動的に動く、受動的に動く、その2つは対比して使われる。
自分から何かする場合と、言われて動く場合、または状況に応じて動く場合。
ざっと、そんな所か。
日々、人の身体を触っていると、その性質が似ているものに出会う。
「~っぽい」という、何とも言葉にしにくい分類に分けることが出来る。
完全に同じ性質は存在しないが、似た性質は何パターンかに分かれる。
身体に何らかの不調や不具合が生じやすい、または慢性的に何かある場合、
共通するのが「感覚が鈍い」という事。
自分の身体の感覚に無神経というか、無頓着というか、ハッキリ言って、鈍いのである。
自分の身体を、感じられないのだ。
もっと言えば、感じようとしていない。
それは同時に、「こうしよう」「ああしよう」がかなり強いことを意味する。
こう動かそう、こう使おうという意識が強いと、無駄な動きや無駄な力みを生む。
そこで生まれた、非効率で、非合理的な動きが、身体に不調や故障をもたらす。
しかし、それには気が付かない。
主体的で、能動的に身体を使おうとする人は、
そう使うことが、上手く使えない原因になっているという事を感じられない。
なんだかわかりにくいな。
例えるなら、車をバックで車庫入れをする時に、
周囲の状況を見ずに、自分の都合でハンドルを切るような運転に似ている。
後ろや前から車が来ようが、
人が居ようが、木があろうが、
充分なスペースが無くても、関係ない。
そんな運転していたら、たちまち車は傷だらけだろうし、事故を起こすのは分かる。
バックで車庫入れするなら、まず周囲の状況を確認して、
スペースを見極めて、バックギアに入れて、
ミラーやモニターで周囲後方を確認しながら、ハンドルをゆっくり切る。
そんなの当たり前だろ!
と思ったあなた。
シンプルで、ありふれた場面に、本質というものは隠されている。
車をどう操作するかは、自分がどうするかではなく、周囲の状況が決めているのだ。
能動的なのか、受動的なのかの大きな違い。
能動的になったら、事故を起こす。
受動的なら、最適化された動きになる。
身体の動かし方でも、全く同じことが言える。
「こうしよう」とした時点で、もうアウト。
ただただ、感じるだけ。
感じられないと、何もできない。
「こうしよう」とした時点で、感じられなくなる。
身体がどんな状態であるのかを無視して、
自分が置かれた状況がどうかをわからずに、
一体何が出来るというのか。
何もしなくていい。
感じるだけでいい。
自分で勝手に何かしなくていい。
よく陸上クラブでやってる「ドリル」が、どれだけマイナスか。
まぁまぁ、あんまり言わないでおこう。
関節を動かして、代謝を起こして機能回復を促す施術に加えて、
そんな感覚神経の再教育ができたら、もっと整体が面白くなるなと、
田んぼの中で5年やって見えてきた。