正解が無いという答え
この1年で浮き彫りになったこと。
日本人は、正解が無い問題に対して、激弱い。
予め正解が用意されていて、
それを導き出す方向性は、割と得意かもしれない。
正解を導くことが正解だと、教えられてきた。
え?
当たり前だろって?
日本語って難しいね。
誰かが正解だと言ったこと、
誰かが言ったそれっぽい事に賛同する。
いかにも、そうだと言える事に自分を寄せて、安心する。
大丈夫。
大丈夫。
そうしていれば、安全地帯に居られる。
しかし、「現時点での最適解を導く問題」に対して、
「私はこう考える」
「私はこう結論付ける」
「なぜならこうだからだ」
と、自分で着地点や策を導き出すとなると、
えらく控えめになってしまう。
だから専門家の意見が欲しいんだろう。
専門家は、また専門家の意見が欲しいんだろう。
誰かがこう言ってた。
という後ろ盾が無いと、答えに自信が持てない。
まぁ、それもいいでしょう。
信じる者は救われるって、
誰が言ったか分からないけど、
そんな言葉もある。
従っていれば、自分の存在は隠すことが出来る。
みんなが居れば安心さ。
責任だって取らなくていい。
発言する者になるというのは、
色んなものを浴びたり、背負うという覚悟が要る。
僕ら整体屋は、小さな小さな仕事だ。
言うこと、為すこと、施術には、整合性をつける。
辻褄が合わないことには、おかしいと言う。
合理的なものは、声を大にして呼びかける。
未科学的なものは数知れず。
非科学的であってはならないのだ。
サイエンスリテラシーって、整体屋には必須。
科学を重んじないと、コテコテの民間療法として、
うさん臭さがプンプン漏れ出してきちゃう。
それじゃ最適解までは程遠い。
答えを導き出したようで、ただの遠吠えに過ぎない。
誰が言っていることが正しいのか。
その考えが間違っている。
それに、言ったことに対して、責任を負う肚が決まった人間を、
ここ久しく見た事が無い。
だからこそ、眠い目をこすってでも、
こうして僕は発言する側に回る。
自分が現時点で「こうだ!」と思ったことを、
証明し、修正し、
最適解を出し続けるために生きる。
時には盛大に間違える。
間違えたっていいだろう。
人間だもの。
間違えたら、改めればいいんだ。
肉離れが痛いので、寝る!