「頭が腰痛」という事実
物事の受け取り方には、人それぞれの主観が少なからず混じる。
フラットな目で見ているつもりでも、受け取り方は人それぞれなのだ。
北朝鮮から飛んでくるミサイルは、向こう側からしたら研究や正義の一発かもしれないが、日本からすればけしからんとなる。
確かなのは、一発ミサイルが放たれたという事実だけであって、目に映る「現実」はみんな違う。
腰痛も同じことで、腰が痛いという「現実」は、事実とは異なることがある。
整体師は、どういうわけで腰に痛みが出ているかを診る。
それから、どのように正常な状態に戻していくか考える。
腰が痛い本人には、「腰が悪くなった」と見える現実がある。
あらゆる心当たりを思い返して、見当が付くこともあれば、まるで思い浮かばないこともある。
いくら思い返しても、ただただ、痛いという現実は変わらない。
できるだけカラダの言い分を聞くならば、痛みというものは異常事態を知らせるセンサーであって、痛みを感じられるということは神経が正常に働いているという、非常にラッキーな事だ。
何かしらの不具合がある、不都合なことがあるということを、脳が知らせとして受け取っているのが痛みだ。
だから、腰痛は「頭が腰痛」なのである。
人間の心理として、この痛みは後にどうなっていくのか、何故痛いのかを知りたい気持ちが起こる。
その気持ちに最も効く特効薬は、「診断」だ。
診断をされることによって、「あなたは〇〇です」と言われれば、多くの人は「あぁ、私は〇〇なのね」と受け入れるしかない。
この診断が、後に「〇〇だから」という自分を納得させる理由付けになっていく。
この心理はもう、完全なる諦めである。
例えば腰痛の場合は、外傷などを除けば、日頃のカラダの扱い方、動かし方に根本的な原因がある。
そうした原因が、筋肉の過緊張や関節のロッキングや癒着を作り、ある臨界点を超すとカラダがそれを痛みとして伝えてくれる。
日常的なカラダの使い方に気を付けながら、原因によって発生したカラダの調整箇所を取っていけば、快適な毎日を送ることが出来る。
ところが、「〇〇だから仕方ない」という諦めに達すると、良くしようという気や良くなろうという気の芽が絶えてしまうのだ。
いつまで経っても、原因が取り除かれることはないので、良くなりようがない。
ちなみに、「診断」は医師のみができる。
残念ながら、一緒に解決策を探っていったり、ベストな処置をする医師ばかりではない。
立派な診断を下して、諦めさせて、その後の人生を歩ませる医師だっている。
痛み止めと、湿布、延々と薬漬け。
僕ら整体屋は、どういうわけで問題が起こっているかを見る。
それから、どのように正常な状態に戻していくかを徹底的に考える。
薬も、器具も、サプリも電気も使わない。
痛みも、シビレも、カラダのその部分がダメなんじゃなくて、何とかして欲しいという正直な声。
目に見えている「現実」は「事実」とは異なるかもしれないのだ。
だから、色んな角度、俯瞰する目が欲しい。
一生修行は終わらない。