どこか他人事のからだ意識
よく、走っている時は何を考えているかという質問を受ける。
何も考えていない、そんな時もある。
頭を空っぽにすることで、その間に考え事や記憶が整理されることもある。
だが、何も考えていないと危ない場所を走ったりもする。
特に山のガレ場や木の根の張り巡らされた下りは、集中して反射で足を捌いていく。
何も考えていないと、危ない。
ペース配分や、姿勢、リラックスや動きのバランス、刻一刻と変わる状況に自分を合わせるべく、色んなことを考える。
レースの時はもっと一度に色んなことを考える。
苦しい時もあるけれど、それはオプションみたいなもの。
走るというのは、100%自分を主体的にコントロールする行為だと思う。
置かれた状況で、自分自身をどう動かすか。
そのために、感覚を研ぎ澄まし、意識を集中させる。
からだの感覚、意識の置き方、考え方、全ての舵取りをする。
上手く行く時ばかりではないので、その都度収穫や改善点を見つけて、次にどうするか考える。
そういった行為が、既に主体的な取り組みでもある。
日々、何かしらのトレーニングや、エクササイズを習慣にしている人は、自分のからだを自分のものとして自覚している。
当たり前じゃないかと思うかもしれないが、その自覚を持っている人は実は少数派だ。
からだのことに関して、
考えたことがなかった、
それでいいと思っていた、
どうにかしようと思っていなかった、
置いておけば何とかなると思っていた、
いつか何とかしようと思っていた、
自分だけは大丈夫、
そうはいってもねぇ、
みたいな認識を持っている人が大半なのだ。
問題意識位は持っていても、答えを聞くのは、検索エンジン。
無料で手に入る情報に、価値のある一時情報なんて一切無いのに。
ようは、大して深刻に、深く考えていないのだ。
誰かが何とかしてくれるのを、待っている。
スーパーヒーローが、自分を救ってくれると思っている。
いつまで待っても、そんなことあるわけ無いだろう。
白馬の王子様が永遠に現れないのと同じである(笑)
なぜなのだろう?
どうしてだと思う?
何のため?
本当にそれは合ってる?
メディアの過剰な演出、ネットの表面的な聞きかじり、俗説の思い込み。
簡単な問いかけに、ボロが出るものばかり。
情報化社会は、自分の頭で考えようとしなくなる、クセが付く。
情報ばかりが先行して、自分のからだの声や感覚さえも後回しになる。
もっと、からだに耳を傾けよう、意識を置こう、大事にしよう。
手遅れになる前に。
いつもからだは、何かしらのサインを発しているものだから。
これはいいね!!
というものから、御免被りたいというものまで、いつも僕らに語り掛けてきている。
無視し続けると、鬱憤がたまって大爆発したり、手遅れになる。
からだの声を聞かない人は、整体しても意味が無いので、お断りしている。
聞けそうな人は、僕が遠まわし遠まわし、説教する(笑)
何はともあれ、からだは大事に!!
また明日!