疑問を持つクセをつけろ
![](https://i0.wp.com/lakuda.net/wp-content/uploads/2020/03/line_119779934097118.jpg?fit=1035%2C576&ssl=1)
ここ10年で、世に流れる情報量は格段に増えた。
量が増えれば、質は下がる。
滅茶苦茶なこと言ってたり、俗説や噂話が独り歩きする。
だから、現実をつかむには、取捨選択する能力が必要なんだ。
ということは、繰り返し書いている。
自分の頭で感じる・考えるというステップを踏まない人間は、
切り取られた限定的な情報でパニックを起こす。
判断するには不十分な情報だけで、早とちりする。
客観的な情報から、何も読み解けない。
文面が言っていることは、どんな状況を表しているか。
何が起きているのか。
起きていないのか。
つまり、言い換えれば何なのか。
視点を変えれば、どんなことが言えるのか。
また言えないのか。
その時何ができるのか。
自分がすべきことは何なのか。
情報に触れて、より広い視点、より高い視点から、
全体像を見渡して判断する力の、
欠如。
これがコロナパニックの正体。
情報とは、時に文章であり、数字であり、写真や動画のビジュアルである。
ひとりが見聞きしたモノを、より多くの人と共有するために、様々な媒体を使う。
共有するためには、発信する側の表現力と、受け取る側の理解力が要る。
両方とも高い力があるに越したことはない。
拙い表現でも、受け取る側の理解力や、
不足している情報を引き出す「聞く力」があれば、シェアが出来る。
しかし、どんなに分かりやすい表現をしても、
受け取る側の器が小さければ、伝わるものも伝わらない。
情報に触れながら、順を追って状況をイメージする。
膨大な情報から、要するに何かを整理する。
義務教育で身につけなければいけないのは、この力だ。
様々な教科の中で、繰り返し練習する。
一番大事なのは、やっぱり国語。
算数ができないのは、計算が苦手なのではない。
問題の意味がわかっていないからできないのだ。
他の教科も、全部同じ。
コロナ騒動が始まってから、
情報の不十分さや、数字の偏り方、
そこから報道される内容に、違和感しかない。
そんな内容に、何の疑いも持たない人間が、
一定数どころか、相当数いるという現実。
「~らしい」という思考停止。
「~しなければならない」という正義。
その人間たちに、目の前の現実は見えない。
どういう理由でそうなっているか、理解も出来ない、考えようともしない。
何かに触れて、疑問に思う。
ただそれだけのことから、わかろうとするステップが始まる。
疑問は多ければ、多いほどいい。
自分で調べ出すと、見える世界がどんどん広がっていく。
そして、不都合なことを隠していることに気が付いたり、
複雑で難しそうなことが実は簡単なことに気が付いたり、
化けの皮や偽りの顔も見えるようになる。
偉そうな人が、ただ偉そうにしているだけ。
なんて、、、、ことも、、、ある。
まぁそういったことはあくまで脇役。
疑問に思うことで、知る面白さが広がる。
世界が豊かになっていく。
そういう意味では、
コロナパニックに陥っている日本は、
物質的には豊かであっても、
知ろうとするという知的水準は、相当に乏しいのかもしれない。