理論武装と論破というダサさ
日頃は部屋に籠ってマンツーマンで仕事しているため、議論するとかいう場面にはほとんど出くわさない。
というか、ここ数年はほぼ無い。
社会生活から少し隔離されているので、俗世間のことに疎いこともある。
一方で、人間関係がこじれたり、会社としてや組織としての機能がうまく回らなかったりするのは、あらゆる形の議論が発端となることが多いようだ。
これは、数々のクライアントさんから耳にしていることなので、確かだ。
施術しながら、色んな話を聴かせてもらう。
日頃の生活の状況をしっかり聴くのも、整体師の仕事。
総じてみれば、議論する際に理論武装して論破する輩が、最も組織の生産性と人間関係を悪化させる。
カッコいいようなことを言って、意見を押し通す。
弁の立つことを武器にして、上司に噛みつく、部下や後輩に威張る。
困るのは受け手の方で、輩が勝利しただけで、議論の末に達成しようとしていた目的は全く果たせない。
あなたの周りにも、必ずいるはずだ。
理論武装して論破するのは、もっとも残念な、大人の顔した子どもなのだ。
だって、議論の目的は、勝利することではなくて、改革することだから。
相手を言い負かしても、何も得られない。
せいぜい小さな自己満足だけだ。
これは、組織だけでなく、夫婦や友人、全ての人間関係に言えることだ。
しかしながら、人間は議論での勝利を目指してしまいがちな、習性を持っている。
議論で負けたようになると、人格を否定されたように感じるからだ。
これは特に日本人にありがちな感じ方らしい。
欧米人の場合は、議論になっても意見と人格は別物として考える。
どんなに白熱しても、議題や話題が切り替われば、快く手を取り合える。
この辺りの認識の違いが、社会における人との付き合い方や、人間関係におけるブラックなストレスの根源になっているようだ。
それだけ理論武装して論破したい側は、自分自身の人格を守りたいという欲がある。
欲があるというということは日頃、満たされない寂しさや、コンプレックスがある。
議論で丸め込まれた側も、人格否定された気持ちになるかもしれない。
僕は理論武装して論破したい面倒くさい人間に向けてこれを読んで欲しいのではなく、
丸め込まれている側の人に読んでもらいたいと思って書いている。
どんなに理屈を並べて論破されても、卑屈に思うことはない。
相手は、議論の目的をわかっていない、子どもなのだ。
もう一度言う、あらゆる話し合いの場面の目的は、改革だ。
そんな認識を持ってもらって、働く人達の気持ちが少しでも楽になれば幸いである。
色んな人からの話をまとめた、心理学講座でした。