命が燃えない
今年の富士登山駅伝の中止が決まった。
昨年に続き、連続。
今はまだ、気持ちの整理がつかない。
という下書きをしてから数時間・・・
気持ちの整理は、ついたな。
もう次を見ている。
その前に、今現在を記しておこう。
この2カ月は、登りに特化して体作りをしてきた。
階段インターバルは連続15本できるようになった。
しかも、レストタイムを短くしてだ。
何年も前に始めた頃は、7本やるのがやっとだった。
レストは今の倍くらい取っていた。
有酸素能力の基盤が広がると、登りのタイムも本数も上がる。
ここ1年の、全ての走り込みが、登りに通じているという手応えがあった。
タイムトライアルを何度も入れて、
これから仕上げていこうという矢先。
登りに特化したトレーニングは、正直しんどい。
逃げ出したくなる。
でも、そこから逃げないで向き合うことで、
自分のどこか奥に眠っている、前に進む力を、
少しずつ引き出すことができる。
本番はコースの過酷さに耐えて、
桁違いの強者達を抑え込まなくてはならない。
チームの運命を背負う重圧、失神しそうなくらいの身体的負荷。
吐き気さえするプレッシャー。
追い詰められて、追い詰められて、
逃げ場が無くなって、肚が極まる。
逃げないで向き合っている?
違う。
逃げられなくなって発動する、闘争本能に突き動かされている。
それはもう、コントロールできる精神や肉体的な枠を超え、
生存本能の雄叫びのようなものかもしれない。
本番で負うダメージは、生理学的な限界値を越えている。
1度出る度に、5年寿命が縮まると言っていい位、
細胞レベルで削られていく。
大会後、1カ月かかっても体調は戻らない。
そこまでしても、なぜやるのか。
苦しさに加えて、下り区間では常に転倒と負傷のリスクがつきまとう。
正直に言おう。
そうでもしないと、生きているという実感が得られないのだと思う。
生きるか死ぬかという、命が発動するようなせめぎ合いで、
全力を出すことでしか、面白味を見出せないのだ。
病気と言ってもいいかもしれない。
過酷になる程に神経が冴えわたって、
プレッシャーが掛かる程に、自分の存在価値を感じられる。
飢えている。
生き飽きていることの、裏返しかもしれない。
追い詰められて、命を燃やすような状況でないと、
生ぬるいと感じてしまうのだ。
今年も富士登山駅伝が中止になって、
最初は足を挫かれたような気分になった。
でも、それはほんのひと時だけ。
飢えは一層強くなり、
生きている実感への渇望が湧いている。
なに、準備期間が残り1カ月から、13カ月になっただけさ。
十分に準備に時間をかけることができる。
本番のダメージを負わず、休養期間も必要ない。
今から来年の強化に取り掛かればいい。
登りは続けるよ。
階段インターバルも年間通じてやるよ。
山も今年は沢山行けるだろう。
走り込み三昧だ。
中止を食らって、一層肚が極まった。