TVと情報汚染
ここ何日か、TVを観ていない。
もともとあまり観ないが、ここ数日は全く観ていない。
おかげで、使える時間が増えた。
年末で駆け込み施術もある中で、少しでも時間が増えるのはいいことだ。
ここ日本において、TVがない生活というのは、今では考えられない。
一家に1台どころか、何台も持っている家だってある。
TVはすっかり無くてはならない家電になってしまった。
ふと思い返すと、TVを観なかった期間が何日もあった期間が2回あった。
ひとつは消防学校で寮生活をしていた時だ。
TVを観る余裕なんて無かった。
でも、全く困らなかった。
寮で百数十人で生活しているので、TVなんかより仲間と話をする方が良かった。
だが寮生活という閉鎖的な空間での「情報の質」に怖さを感じた出来事があった。
消防学校の寮生活は、社会と隔離されている。
みんなTVを観ないので、世の中のことはよくわからない。
そんな時に誰かが「タモリが死んだ」という話を流した。
社会と隔離された生活をしているため、外部からの情報が無い中で、デタラメなことを流したのだ。
ご存じのとおり、タモリさんは今もご存命である。
ところが「タモリが死んだ」という情報は瞬く間に広がった。
みんなが「おい!タモリさんが死んだらしいぞ!!」と口々に言うのである。
これは僕もいったんは信じてしまった。
信じられない出来事ではあるけれど、あり得ないことではない。
でも確かめようのないものであるので、振り回されてしまった。
根も葉もない死亡説が、確かめようのない状況では確からしいものとして語られるのだ。
火のない所に煙は立たないと言うが、閉鎖空間では煙を起こせば充満するのである。
この消防学校で起こった出来事は、
日本という島国でも当たり前に日常的に起こされていることに気が付く。
規模が小さいか大きいかの違いと、誰かが言ったデマかTVかの違いで、
起こっていることに差はないのだ。
勝手に誰かを死んだことにするような情報をTVが流すことは、ほぼ無いにしても、
流す情報によって視聴者に思い込みを植え付けるシステムが成り立っている。
もうひとつTVを観なくなった期間があったのは、小学生の頃だ。
確か兄貴がTVゲームを長い時間やっていて、父親をブチ切れさせたのだ。
その頃のTVといえば今のような薄型ではなく、ドでかい箱型の重いやつだった。
激怒した父親は、TVをTV台から持ち上げるやいなや、窓から外へ放り投げた。
いろんな配線がつながったままだったのに、配線も全部引っこ抜けて放物線を描いてTVが飛んで行った。
子供心に「TVってあんなにきれいに飛んでいくんだな」と思ったのを記憶している。
それから2年間程、家ではTVが観られなくなった。
その時も意外なほど不自由が無かった。
その後、長野オリンピックがきっかけでTVが復活することになった。
放物線を描いて飛んでいくTVの様子以上に驚いたのは、
飛んで行ったTVが普通に映ったことであった。
子供が釘付けになっていても、薄型TVは投げないでくださいね。
「からだ工房らくだ」