書き手の存在を消す
お久しゅうございます。
いつぶり?
ってくらい、更新から離れておりました。
早く寝たいし、
仕事は有難く埋まりっ放しだし、
トレーニングはしないといけない。
しないといけないことはないんだけど。
それでいて本は読みたい。
ブログ君、君は後回しだ。
と口に出す必要は無いのに、
毎日PCに向かって宣告し、
時間無いと言いながらも、
Twitterではタイムラインを汚している。
Twitterは備忘録、メモみたいなもの。
書いておかないと、永遠に思い出せなくなることを、
東海地震よりも恐れている。
様々な発信がある中で、読みたいものと、
うざったいものと、何が違うのか。
あからさまに言い過ぎた。
流したくなるものとしておこう。
うざった・・・流したくなるものは、
発信する人間に焦点が合っているものなのではないか。
例えば、Instagramの投稿。
写真に投稿者が写っていないにしても、
「モンブラン食べました」
「オムライス食べました」
っていう食べ物が載せてあるにしても、
「そういう投稿している自分を見て欲しい」というのが伝わってくるものがある。
モンブランに便乗して、
オムライスに便乗して、
まぁその2つに限らず、そこに居る自分を上げたい!
が滲み出ている。
やりたい事ができていて、良いんじゃないでしょうか。
目的は果たしている。
悪いとは言わない。
ただ、流しちゃう。
車を運転していて、すれ違う車のように流してしまう。
一方で、読みたいものは、モンブランに焦点が合っている。
その栗がどんな栗で、栗の下には何があって、どんなオリジナリティがあるのか。
そして、作る側はどんなことを大事にし、何を味わって欲しいと思っているのか。
写真の撮り方も、つけるコメントもまるで変わってくる。
何なら、まだ食べてないのに、食べたような気にもなってくる。
投稿しているのに、投稿者の存在が薄くなっていく。
写真の奥に奥に世界が広がっていく。
そこに在るものを表現する。
絶対にゼロにはならないけれど、
限りなく自分の存在を消す。
読みたいものは、そんな構造になっている。
掃いて捨てても無限に湧いてくる情報の波の中に、
そんな2つの色がある。
自分が感じたものを、あなたとも味わいたい。
同じものを感じられた時、喜びは倍増する。
それが楽しくて、こうやって駄文を綴るのである。