感覚と情報とこの騒ぎ
世も末でございます。
戦争やった頃と日本は何も変わっちゃいない。
なーんて、書きたい事は山ほどある。
社会的不適合者のムラタです。
同調圧力には倍返しで対応しております。
ここ数日、仕事が終わってからAmazon Primeばかり観てて、
ブログをサボり…
今夜も観ようかと思ったら、一緒に観る長男が寝てしまったので、
仕方なくPCに向かっている。
今日は体の感覚について。
感覚というのは、厳密に言えば、自分しか感じられないものだ。
全く同じことをしても、全く同じものに触れても、感じ方は人それぞれ。
言葉にするのは難しい。
ひとつの言葉に対するイメージも、人それぞれ違う。
人はなかなか分かり合えないものだ。
だからこそ、例えを使ったり、様々な表現を用いたりして、感覚を伝え合う。
分かる、伝わるというのは、
誰かの感覚が流れ込もうとすることに他ならない。
理論的であることはすごく大事。
でもそれは感覚を数値化したり、
感じた事の裏付けを取るための手段だと考えている。
一番大事なのは、感じる事に集中すること。
自分の目、肌感覚、耳、ニオイ、味、というのは感覚器。
そこでキャッチした数字にならない何かを、受け取る。
何となく受け取るのではなく、感覚に意識を持って行く。
現代人は、体が感じたことを受け取ることが出来ていない。
日頃、整体で色んなクライアントと向き合い、
自分の体とも向き合う中で、浮き彫りになってきた課題である。
アンテナではキャッチしている。
でも、それが感じられないのだ。
ポストには届いている。
でも家主はそれを開けようとしないのだ。
感じようとしていないのと、
頭で考える意識が強いから。
同じことか。
例えば「体に良いから○○を食べる」というのは、誰にでもあることだろう。
体に良いかどうかは、感じるものであって、意識や思考で決めるものじゃない。
理論や情報が先立つと、感覚は99%以上失われる。
こうなるはずだ。
こうするべきだ。
そこから入ると、まるで上手くいかない。
自分で感じて調整することすらできなくなる。
これを思考停止という。
世の中のコロナ騒ぎと、
体の声を聞けなくなった現代人と、
頭でっかちなランナーは、
実は全部根っこでつながっている。
言いたい事は山ほどあるよ。
まだ1年は始まったばかりなので、今日はこの辺で。
まとめると、
自分の調子が良いと感じる方を選べ、
自分の感覚が良いと感じることをしろ!
ということでした。
チャンチャン♪