人に何かを伝えようなんて無理、からの
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久々にキーボードを叩いている。
出来ることなら毎日でも書きたいし、書かなくてはならない。
しかし、何を書いても批判的に捉える人はいる。
炎上上等!
炎上しない発信などに価値はない!
それは事実。
炎上するということは、
良くも悪くも人に刺さる何かがあったから。
僕の発信の頻度を下げたのは、批判的な捉え方ではなく、
どんな表現をしようとも、意味が伝わらないことの無力さだ。
新聞、TV、ネット記事、どんな媒体を通じても、
少なくとも国民の半分は、意味が分かっていない。
文字は読める。
言葉も話すし聞ける。
しかし、その文字や音声が、
何を言っているか、何を伝えているかが分からないのだ。
そして、そういった人たちは、
僕のこうした文章の意味も分からない。
文字の羅列から、何が表現されているか。
また何を表現していないか。
文脈の解析度は、リアリティである。
情報から、どれだけのリアルを構築できるか。
情報は、コード、暗号である。
どこかで起きた出来事を、文字に乗せて、だれかの頭の中に投げ込む。
そして、現場に居なかった人にも、臨場感を持った疑似体験を紡ぎ出す。
考えや理屈を伝える場合もそうだ。
ひとりの頭の中に描いたものを、
誰かの頭にも描くように文字を綴る。
そのためには、コードを打ち出す技術と、コードを読み込む技術が要る。
連日繰り返される、誇大拡大ニュース。
内容はまるで無い。
文脈も支離滅裂。
メディアという仕事はあっても、
そこでジャーナリズムはもはや息をしていない。
起きていること、
言っていること、
やっていることの整合性がついていない。
この2年弱、情報にはそんな違和感ばかりだ。
「事実」というリアルを、いかに鮮度を落とさず、
どれだけ離れた場所に居る人の、脳内に届けるか。
それがメディアの仕事じゃないのか。
というのは、僕の独りよがりな理想であり、間違いであるようだ。
信じられなかったが、
何も価値のある情報を伝えていないメディアを観て、
世は手の施しようもないパニックに陥った。
怖い怖い病である。
怖いとはイメージである。
そこに、データやファクトは存在しない。
過剰に煽られたイメージが、データやファクトを封じ込め始めた。
もはや、文章など、何を書いても伝わらない。
受け取る側に、解析能力が無ければ、
僕が書いたコードが頭の中で焦点を結ぶことなど無いのだ。
残念ながら、このパニックがこの国のサイエンスリテラシー、
センテンスリテラシーの度合いを示している。
だからもう、諦めた。
そもそもが、伝わらないものなのだと。
絶対に伝わらないのだと。
どうせ意味なんて通じやしない。
自分以外は他人だ。
コネクターでつながりはしない。
これから先は、伝えようと思って書かない。
自分自身の備忘録、記録として。
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という原点に立ち返り、自分が振り返って読みたい事を書く。