テストで何点取ろうが意味は無い
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テスト、評価は、必ず点数がつけられる。
世の中は、テストだらけで、いくつになっても逃げ場がない。
数値化しにくいものでも、出来る限り点数をつける。
客観的指標、データのあるおかげで、目に見えないものが形になり、痕跡の残らないものに足跡がつく。
テストする、試験をやる。
取った点数に何の意味があるか。
取った点数には、何の意味も無い。
これまで、点数がその人の価値であるかの如く、生きてきた人もいるかもしれない。
残念ながら、どれだけ高い点数を取っても、それはただの数字だ。
受験にしても、それは手段であって、受かったから偉い訳でも、落ちたから価値が無いわけではない。
点数で最も大事なのは、取った点数ではない。
取れなかった点数にある「伸びしろ」だ。
取れなかった点数にこそ価値があるのであって、取った点数は落書きも同然である。
取れなかった点数にある、伸びしろを、どう自分に落とし込むか。
ここが最も大事。
だから、試験はスタートである。
他人にどう思われるか心配、
間違えたくない、
怒られたら嫌、
そんな考えで生きている大人は、まさか居ないだろう。
方向性が明後日の方にズレている。
10点でも、20点でもいい。
点数をつけないことには始まらないのだ。
どう見られるかを気にしているうちは、点数さえもつかない。
ゼロ点さえも、100点分の価値がある。
点数が付かないのは、勝負以前の敗北、不戦敗、問題外。
ある時を境に、学校の勉強をきっぱり辞めたことがあった。
点数で人間の価値を測る教員と、それに従う同級生を見て馬鹿らしくなった。
学校の先生が大嫌いで、勉強できる同級生も嫌いだった。
もちろん学力などあるわけもなく、進学できない進学校に、野球で拾ってもらった。
その後3年間、僕は何から何まで徹底的に叩き上げられることになる。
そんなこともあって、点数がどうの、何点取ったとか、どこの高校、どこの大学、どこの企業なんて、ネームバリューには全く価値を感じない。
そのネームバリューという看板で自分隠したりすると、すぐバレる。
看板通りなのか、看板は表向きだけなのか、社会人になって試されるのはそこだ。
中学生くらいまでに、ソコソコ、程々に勉強ができると、点数に価値があると思うようになるらしい。
僕は最底辺だったから、取れていない点数が伸びしろだと思うようになった。
伸びしろを伸ばす勉強は、面白い。
自分の子どもにも、そんな視点を刷り込みたいと考えている。