人の痛いのは100年我慢できる
「人の痛いのは100年我慢できる」
誰が言ったか、どんな意味があるかは、受け取り方による。
そうかもしれない。
痛がる人にどんなに寄り添っても、所詮は自分以外の体なのだから、
全く同じように痛みを感じる事はできないかもしれない。
同じ症状、同じ状態でも、感じ方はまたそれぞれで異なる。
本当の意味では、人の痛みは分からない。
思っている事だって、分かり合えない。
だからこそ、痛みがどんなものであるかを、汲む必要がある。
考えや思いを聴かなければならない。
何をすると痛くて、どんな時に痛くて、どのようにして痛くなったのか。
ひとつの体の中で鳴り響くコールサインを、外部で受信する。
分かり合えるように、汲み取る努力をする。
声になるようでならない、文字になるようでならない、
痛みとしか現れない体の声を、再現性を持つコードだと思って聴く。
そんな時に、最も役に立つのは、自分自身が経験した「痛み」だったりする。
腰が痛くなった事の無い人に、腰の痛い人の気持ちは分からない。
肩が痛くなった事の無い人に、肩の痛い人の気持ちは分からない。
足の裏が痛くなった事の無い人に、足の裏が痛い人の気持ちは分からない。
同じ経験をしていないと、まるで想像力が働かない。
ドリアンを食べたことが無い人が、ドリアンの味を語ることが出来ないように、
痛い経験をしていないと、切なさが分からない。
体に起こっている状況が把握できない、機序がわからない。
「人の痛いのは100年我慢できる」という、
一見ふざけた言葉には、だからこその教訓がある。
痛い経験は、大事。