災害と人間の限界
3月11日は、少なくとも今後100年は、特別な日として扱われるだろう。
でも150年、200年したら、どうなるかわからない。
多くの血と涙を流した太平洋戦争の記憶でさえ、既に多くの人の記憶から薄れてきている。
300年したら、東日本大震災があった事すら忘れ去られるかもしれない。
現に、数百年前の災害は地面掘っても詳しいことは分からないし、
数千年単位になると幾つかの仮説と推測の域を出ない。
沿岸部の地域では、津波の浸水域と神社の位置や向きが一致するという話がある。
地図を見てみるとなるほどと思えるのに、
なぜその位置なのかということや、
どういう理由で建っているという事は、歴史を重ねる程に埋もれてしまう。
時間の経過と共に、忘れられる。
史実と違った事が伝わったり、歪曲される事もある。
歴史を知ることは、過去からのメッセージを受け取ると共に、
未来を見通すための重要な手掛かりになる。
1人の人間の一生は、長くても100年程度。
その間に出来る事は、そう多くは無い。
わかる事も、考える事も、少しだけ。
僕らは小さな窓からしか、この世界を見る事はできない。
1人でできる事は、小さくてほんの少し。
それも、短い期間でお終い。
だから、出来なかった事をしたり、新しい事をするには、
何人もの人が歩んだ「時間」と「数」を集結させる必要がある。
後世になる程、その時間と数の蓄積は増えていく。
日々、科学や技術、文化、芸術は進歩して、時に淘汰されていく。
歴史が後世に伝わらないという事は、
蓄積されてきた時間と数が無に帰すという事だ。
この損失が与える影響は、計り知れない。
だが、そういった事は、日常生活にも溢れている。
数多くの失敗と、そこから得た教訓があっても、
僕らはまた同じ事を繰り返して、痛い目を見る。
現代は具体策に躍起だ。
どうするか、何をするか、これが欲しい。
変化の速い時代だからこそ、生き残る方法を考える。
自然な流れだと思う。
具体策、方法に「なぜ」があるか。
どうしてそれをするのか。
何のために、それをやるか。
それがあると無いとでは、結果が全然違ってくる。
プロセスに方向性があれば、目的地に着くか近づくことはできる。
「なぜ・何のために」は、経緯や歴史だ。
これからの災害に対して、専門家は「想定」する。
想定できない事を「想定外」という。
想定外は、予め想定出来ないのだから、想定のしようがない。
想定できるのは、起こり得るものの、ほんの一部だ。
どれだけ想定しても、想定外は無くならない。
万全の対策、準備は無い。
史実、歴史をより詳細に伝えること。
それを途切れさせないこと。
より知ろうとすること。
そこから柔軟に、出来る事を考えること。
ひとりで出来ることには限界がある。
だから、世代や社会という「時間」と「数」の蓄積をリレーする。
3月11日には、人としての在り方を考えさせられる。