AIに取って代わられるか
「とにかく、人手が足りない」
そこかしこに開店しては閉店するコンビニ。
皆さんは不思議に思ったことはないだろうか?
たまたまコンビニ経営に携わる患者さんから聞いた話。
売り上げがどうこうではなく、どこも人手が足りなくてコンビニは閉店するらしい。
店長ひとりで頑張っても十数時間が限度で、間に切盛りするには人数が要る。
何人も雇っていても、主婦は扶養の所得にも掛かる。
学生は試験や実習にも被ることがある。
なんだかんだ言って、1年中手一杯で、疲弊して店を閉めることがあるらしい。
一方では、コンピュータのシステム化が進んだ銀行などでは、人員削減が進む。
わざわざ人に任せなくても、ATMにやってもらえばそれで済む。
銀行や信用金庫の統合もどんどん加速する。
人間の仕事は近い将来ほとんどが無くなるというのは、もう世間の共通認識。
でも、人の仕事が無くなるって、それは誰のためなのか?
効率、スピード、低コスト、均一化、それはそれで素晴らしいことかもしれない。
人から仕事を無くすことが、人のためになるのか?
どれだけ働いても、自分が必要とされている、と感じられないサラリーマンが居るのに、その仕事すらも機会に任せるのか?
AIに取って代わられたら、からだを動かすことすら無くなるだろう。
からだを使って生きてきたから発展し、進化してきたものを、止めることに意義はあるか?
その発展は、明らかな衰退と荒廃ではないか?
ブログ、SNS、ネットを通じたこの社会は人と人が繋がり過ぎている。
誰が、いつ、どこで、何をしているかが、どこにいても、いつでも分かる。
それくらいに繋がり過剰な現代なのに、誰にも自分を分ってもらえず、誰にも共感を得られず、自分自身の存在価値を見出せない人が、一体この日本に何千万人居るだろうか。
ネットの世界を作った人間は、ちゃんとそのことを分かっていて、自分に都合のいいものだけを液晶画面に映し出す世界に、甘い罠を仕掛けたのだ。
現実世界を「リアル」と表現し、ネットの世界と対比することがある。
ネットの世界は素晴らしく、リアルは残念な世界というような対比で生まれたような概念。
僕から言わせてみれば、どこまで行っても「リアル」しかない。
どんなに画面の向こう側に世界が広がっていても、そこにかじりついている姿は、リアルなのだから。
これほどまでに繋がりができて、これほどまでに現実逃避しても、人々は満たされない。
日本人の「寂しさ」という欲求は、どれだけテクノロジーが進歩しても埋めることはできないことが、ハッキリしているではないか。
わかってもらう、理解してもらう、認めてもらう、そこに居ていいと感じる、
たったそれだけのことができずに、どれだけの人が苦しみ、どれだけの人が罪を犯し、どれだけの人が気を狂わして人間関係に問題を抱えているだろうか。
AIが進む程に、人の手でする仕事の価値は劇的に上がる。
それは、この情報化社会において、本を読んでいる人間の知恵が突出しているのと同じだ。
タダで手に入るネットの情報ではなく、お金を払って買う本の情報は1冊で数百万円の価値がある。
人は、人からは離れることができない。
これだけは間違いない。